「特別ではない」 [雑感]
特別であるということを救いにする人は世の中には意外に多い。
流行りの歌の中にも唯一無二の存在であることが幸せの代名詞の様に描かれていることもあるし、
それはそれで一つの幸せであることも真実。
でも、「特別ではない」というのは見方によっては幸せ・・・というか、何だか穏やかなものである気がする。
特別ではない、というのは自分がある種の共同体に属しているということで、
それは悲観する種類のものではないと思う。
そもそも、この世にはそんなに何種類もの人間はいないと思う・・・というのは小沢健二君の受け売りな訳ですが。
極小さい単位で。。
例えば家族や親しい友人の中で、その人の存在はとても特別だと思う。
ただ、特別さというものはある種の果てしないプレッシャーでもあるように思える。
夫や父親という立場である人の場合、「妻や子供を守らなければならない」とか、
子供の場合だったら、「親より先には死ねないぞ」とか、「自立したら出来るだけ親には頼らないぞ」とか、
特別であるということは何かしらの決意や努力が必要になる。
それはとても幸せな側面もあるけれど、
単位が大きなものに切り替わったとき・・・一族だとか、地域だとか、国家や世界というレベルに至った場合、
必ずしも特別で唯一のものであることが幸せだとは言えない気がする。
国家の予算を握る立場が、核兵器のスイッチを握る立場が、
世界中の全ての人にとって財産になる研究成果を持っている立場が。。。。。
特別であるということはそれなりの責任が付きまとったり、或いは命の危険にさらされることだってある。
共同体に於ける一つの属性の一部であるということは、それはそれで幸せなことで、
特別でないということも十分に救いになる。
多分ね。
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